読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

だらしなブログ

たまにギャグ漫画描いてます(´◉◞౪◟◉)

イメージは、甲斐の虎・T氏

f:id:yaki295han:20161011124250j:plain

 さて、プロフィールにも記載の通り、適当に絵を描いたり、作ったプラモデルの写真を載せていこうと思ってます。
 なぜブログをやろうかと思ったきっかけですが、志望することがまだ仕事にならないレベルで仕事がなくて暇だから、ネットに疎い人間だけど、ブログという代物をやってみて、自身の勉強や経験になるか、はたまた話のタネになるか、といったところです。プロフィールにもブログ紹介文ありますので、そちらもご高覧頂けますと、ちょっと嬉しいです。
 う~ん、同じ趣味の新しい知り合いができればいいのですが・・・・・ご覧下さい。

 この絵が武田信玄 公だとして・・・・・。

 ブログ開設初の記事になります!記念すべき日!パチパチパチ(・д・)

 たまに歴史の記事を書かせて頂きますね、私が歴史好きなもので(゜∀゜)
 なお、私の知識はネットや信長の野望、城巡りなどから得た程度のものです。それを私の偏見と独断で、私にとっておもしろおかしく、正式な史実・記録をねじ曲げた、妄想じみた、自分勝手な記事内容となっている部分もあります。
 歴史に詳しい方々、そこは違う!といったご意見、多々おありでしょう。そうなんです、あなた方の知識が正しいんです。早速のご指摘、ありがとうございます!次はぜひ、絵のほうの酷評も頂けますよう、よろしくお願いします_(._.)_

 さて、前置きが長くなりました!皆様ご存じの通り武田信玄は、戦が強い(特に野戦においては上杉謙信と並び戦国最強)、優れた政治手腕・外交力といった大名(経営者)に求められる能力を全て持ち合わせたチート武将です。
 さらに、弟を含め、武田四天王武田二十四将と呼ばれる超優秀家臣団(そのほとんどが、家臣なのに他の大名よりも遥かに優れた豪傑や丞相)を抱えて、戦国時代初期~中期を闊歩してました。
 元服時の名を武田晴信といい、横暴粗悪な行為が目に余る実父・信虎を国の為を想い、家臣と協力して甲斐国外へ追い出し、戦国大名になりました。
 晴信が大名になった当時は、すでに父・信虎が甲州一帯をほぼ攻め取った後でして、晴信のもっぱらの目標はその甲州一帯の土地整備と富国強兵をしようかなといったところでした。
 このとき晴信は、父の時代に険悪だった北条氏康と同盟を結び、さらに北条氏今川義元のあいだに入って両者を同盟させちゃいました。この2人、これまでは仲が悪かったんですって!すごいですね。
 となると当然、晴信ありがとうってことで2人とも感謝し、今川・武田・北条の3人で同盟組みました。ここらへんの考え方は武力が全ての父・信虎と、性格が違ったのでしょうか。
 かくして強力な同盟仲間を得て、国力も高まり、次なる目標は信州平定ですね。
 晴信、なんとか信州平定を成し遂げるのですが、北信濃の村上氏に一時は歯が立たないくらいボロ負けして(砥石崩れ)、最高重臣の甘利虎泰板垣信方を死なせてしまうんです。当時の村上氏当主の村上義清はメッチャ強かったのです。
 そして、力攻めでは勝てないと判断し、重臣の真田幸隆に策謀で城を落としてもらいました。武田信玄がここまで苦汁を味わったのは、生涯の中でこのときの戦と川中島合戦だけです。そんな大被害を経て、ようやく信濃を平定しました。
 こんな思いでやっと手にした信濃を敵に渡したくありませんね。そう、信濃のすぐ北には、あの白い頭巾をかぶった軍神がいるのです。
 上杉への備えとして、海津城松代城)に四名臣の一人、春日虎綱(香坂、高坂昌信とも)を配置しました。この方は逃げ弾正という異名で呼ばれ、兵の統率能力は家臣団の中でもトップクラスで退却戦の名人でした。
 仮にもし上杉が攻めてきて城が落ちるようでも時間が稼げて、尚且つ、生きて甲府まで帰ってきてくれる可能性が最も高かった武将だと信じられていたのではないでしょうか。しかし実際は、上杉軍が攻めてきたが、虎綱が生きているあいだは海津城は落城しなかったのです。虎綱、強っ!
 そんなこんなで越後側・信濃側、両者からの防衛最重要拠点だった海津城を巡って、やがて川中島合戦が勃発します。この川中島合戦は、第5回まで渡り繰り広げられましたが決着は着きませんでした。
 合戦の内容は、第四次が日本史上稀に見る凄絶な激戦となり、あとの4回はほとんど睨み合い・小競り合いでした。
 第四次川中島合戦!武田軍2万vs上杉軍1万3千。上杉軍が妻女山山頂に布陣していること・当初は霧が深く視界がほぼ無い状態であったことから、武田軍の参謀部隊の一員だった山本勘助から、霧に隠れて別働隊を妻女山背後に移動させ、背中を突いて上杉軍を下山させ、そこを正面に詰めた武田軍本軍と挟み撃ちにすれば圧勝できるとの提案があり、晴信はこれを採用しました。
 私は軍学者ではないですが、異なる二方向からの挟撃は、挟まれた側が大軍であっても必ず混乱に陥り、回復はほぼ不可能だと言われています。真田昌幸毛利元就小早川隆景竹中半兵衛黒田官兵衛などは、その挟撃の状況を作り出す名人です。
 別働隊として、春日虎綱馬場信春に1万2千を預け、残り8千を晴信本軍として待ち構える作戦に移りました。数で勝る武田軍がこれを成功させれば、上杉軍はひとたまりもないはずでした。
 ところが、上杉謙信海津城のいつにも増して多い食糧炊きだしの煙に気づいたらしく、上杉軍最高司令官の甘粕景持に兵1000だけを預けて離れたところから様子見するよう伝え、事前に静かに下山したのです。
 霧が晴れて、武田本軍8千の目前に、まだ現れるはずのない上杉軍1万2千が突如現れたのです。心の準備ができていた上杉軍と、そうでない武田軍。数に勝る上杉軍は押しまくりましたが、時間が経って武田別働隊1万2千が戻ってきて、挟まれる形になりました。それによって上杉軍は、退却を余儀なくされ、両者、大将健在のまま引き分けとなりました。
 ただ死者は武田軍約4千人+実弟・信繁を始めとした多くの有力家臣、上杉軍は約3千人で戦死した有力家臣はほぼ無し、といった結果から、武田方の被害のほうが手痛いものとなりました。
 川中島合戦直後は、被害による回復を待って力を蓄えました。
 そして、足利将軍からの上洛要請(織田信長を倒してくれ!)に応えて上洛も試みました。武田軍の先鋒衆に織田・徳川方の城はバンバン落とされ、織田・徳川壊滅と思った矢先、晴信は突然病気でこの世を去ります。その後、有名な長篠合戦へと続いていくのでした。
 武田信玄がもう少し長く生きられたら、確実に長篠合戦での大敗は無かったと思うな~。跡継ぎの勝頼も個人的に好きな武将だし、武勇だけなら信玄以上とも言われた猛将ですけど、やっぱり信玄なら、なんとかできただろうな~。個人的なその理由は、また今度それだけに特化した記事を載せようかと考えています。

参考資料
川中島の戦い - Wikipedia