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だらしなブログ

たまにギャグ漫画描いてます(´◉◞౪◟◉)

「他人からなんと言われようが。」

 こんばんは。今夜は、NHK大河ドラマ真田丸」が今週から、とうとうクライマックスに突入するということで、戦国最後の大戦である大坂の陣に参戦した武将を、管理人が描いた下手な絵を載せながら紹介したいと思います。中でも、真田幸村と一緒に戦った、豊臣側の部隊長にスポットライトを当てたいと思います。

 今夜はこの武将!
 大坂七人衆、薄田兼相(薄田隼人正兼相)
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 薄田隼人についての記録は他の有名武将と比べて残されている記録が少ないです。特に、出生に関する資料等がほぼ無く、大坂の陣以前に何をやっていた人なのか、確認性が高い記録が少ないので、よくわからないのです。
 有力説とされているのは、岩見重太郎と同一人物だった!ということです。重太郎は、小早川隆景の剣術指南役だった岩見重左衛門の息子です。重左衛門は同僚の広瀬軍蔵と、なんらかのトラブルがあったのか、広瀬に殺されています。
 そして、殺された父の仇討ちの為、重太郎は諸国を放浪し、天橋立にて仇討ちに成功しています。その旅の途中でヒヒを退治した豪傑である!などの伝承が残されています。実際、薄田隼人も豪傑だったようで、兼相流柔術・無手流剣術の開祖とされています。小早川隆景が病死した後は、豊臣家臣になって、重臣格まで引き立てられています。
 薄田隼人の名が歴史の表舞台に出るようになったのは、大坂の陣へ参戦したことだと思います。
 1614年の冬の陣では、隼人は博労ヶ淵という砦の守備を任されていました。ところが、大将である隼人が遊郭に行っているあいだに、蜂須賀隊・浅野隊・池田隊の奇襲を受け、砦は落ちました。このことから、味方からは「橙武者」と呼ばれ(飾りもの・見かけ倒し、という意味)、馬鹿にされてしまいます。
 翌年1615年の夏の陣では奮戦する活躍を見せ、討ち死にしてしまうのですが、その勇猛さを敵味方から賞賛され、汚名返上となりました。豊臣方で群を抜く活躍を見せた武将たちは、大坂七人衆と呼ばれ、薄田隼人もそのうちの一人に数えられます。
 夏の陣では、兵力で圧倒的に上回る徳川の江戸幕府軍に、奇襲をかける作戦になりました。あっ、大坂の陣は冬・夏ともに、徳川方の兵力は豊臣方の倍以上と言われているんですよ。そんな状況で豊臣方は互角以上の激戦を演じるのです!そんなすごい出来事の詳細は次回以降、書いていきたいと思っています。
 薄田隼人は、後藤基次と一緒に先陣部隊に配属となりました。道明寺の戦いで、徳川方の先陣に近づくために進軍していったのですが、霧が濃かった為、最先端の後藤隊との距離がとれなくなりました。後藤隊約3千は、徳川先陣隊3万の近くに孤立する状況になりました。そして、両部隊は激突しました。
 後藤隊は3千しかいないのにもかかわらず、8時間も粘りました(敵将・奥田忠次を討ち取り、松倉重政を壊滅させた)。
 後藤隊とはぐれた際、引き返して本軍(真田幸村毛利勝永ら)と合流する選択もありましたが、薄田隼人は後藤隊を助ける為、現場に向かいましたが、すでに後藤基次は戦死した後でした。
 薄田隊はわずかな兵力(500~900らしい)で、片倉重長(伊達軍)の1万をはじめ、本多忠政・水野勝成の部隊に突撃していき、敵の大軍を押し戻すなど、一時はその場所に足止めする大活躍をしました。しかし、多勢に無勢。奮戦した後、薄田隊は壊滅しました。この際、薄田隼人は、何人もの敵を道連れにしたことから、敵兵は恐怖し、後ずさりする者は数を知れなかったようです。享年は23歳?くらいだと言われています。お若いですね。
 薄田隼人にしろ後藤基次にしろ、ふつうに考えれば、10倍以上の敵を前に向かっていくなんて、とうてい真似できるものじゃありません。だって、大将一人だけじゃなく、その下についてる部下たちも戦ってるわけですから、よほどの大将への信頼・死への覚悟が無いとできませんね。
 博多?博労ヶ淵?そんなどうでもいい砦一つ落ちただけで馬鹿にするやつら。その砦だって、敵の大軍に対して、数百人しか配備されてなかったのだから、落ちたって文句は言えない。
 本気で守ってほしいならせめて2千人は配備しろよ!薄田隼人ほどの武将なら、そのぐらいいれば守れたわ!本当に避難されるべきは他にいるでしょ?誰とは言わないが、も~りてるちゃんとか、大阪城に引き込もって戦したことないのに要望だけ言いつけて、自分は戦わないあの人とか・・・ね。
 まぁ、あんまり言い過ぎるとね、ダメだよね。私だって戦を知らないのだから。
 とにかく、「橙武者」と馬鹿にされた薄田隼人。その汚名は、夏の陣での奮闘により、おつりがいくらでも返ってくるぐらい、返上されました。


参考資料
薄田兼相 - Wikipedia