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だらしなブログ

たまにギャグ漫画描いてます(´◉◞౪◟◉)

「若き咆哮への手向け花」

 こんばんは!

 今晩も昨日に引き続き、大阪の陣に参戦した豊臣方の部隊長を紹介したいと思います。昨晩は薄田さんでしたね。

 今晩はこの人、井上頼次です!適当に描いたら、なんだかガンダムみたいな色合いになってしまいました(笑)
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 井上頼次の名は、ネットやゲームにほぼ記録が無い為、管理人はつい最近まで存在を知りませんでした。そんな彼は世間からしたら、マイナー武将と言えるのでしょうか?そんなふうに思っていたのですが、実は家柄も経歴も、まあ立派なこと!歴史に詳しい方は既にご存知のことでしょう。
 頼次の父は長井道利です。長井道利は斎藤道三の若い頃にできた子で、斎藤道三・義龍・龍興の3代に仕えた筆頭重臣です。頼次自身も龍興に仕えていて、龍興が織田家に滅ぼされた後、長井家(斎藤姓だったとも)は井上へと姓を改めて、織田家に仕えました。その後は羽柴秀吉に仕え、この時に黄母衣衆の一員に取り立てられています。
 黄母衣衆(きぼろしゅう)とは、秀吉が馬廻衆の中から特に武勇に優れた武者たちを選抜して結成させた精鋭の呼名です。総勢22~24名いたとされ、なかでも有名どころだと、速水守久(甲斐守)、中島氏種(式部少輔)、服部一忠(采女正)、戸田勝隆(民部少輔)などがいます。一説によると、井上頼次の兄とされた井上道勝も、この精鋭集団の一員だったとされています。兄弟そろって勇猛だったのですね。

 さて本題の大阪の陣での彼についてですが、頼次が参戦したのは、いちばん初期のほうで勃発した鴫野の戦いです。
 大阪の陣(役)という呼名は、次のように小規模~中・大規模の戦をまとめた総称とされてます。

 <冬の陣>
 ①木津川口の戦い
 ②鴫野の戦い(しぎの)
 ③今福の戦い
 ④博労ヶ淵(博労淵)の戦い(ばくろうぶち)
 ⑤野田・福島の戦い
 ⑥北山の戦い
 ⑦真田丸攻防戦
 
 <夏の陣>
 ⑧紀州の戦い(一揆
 ⑨樫井の戦い
 ⑩道明寺の戦い
 ⑪八尾・若江の戦い
 ⑫天王寺・岡山の戦

 井上頼次は鴫野の戦いにおいて、豊臣方の実質総大将として、2千の兵を率いて砦の守備にあたった鉄砲隊長でした。徳川方の攻め手は上杉景勝の軍5千&後詰めの堀尾忠晴・榊原康勝・丹羽長重の1千5百程の、総勢約6千5百でした。頼次率いる豊臣方は善戦したのですが、兵力差や上杉方には戦経験が豊富な名将が揃っていたことから(須田長義、安田能元、水原親憲など)、猛攻を受けて壊滅。頼次自身も討ち死にしてしまいました。あとから大野治長率いる1万2千が応援にかけつけるのですが、大野治長の乏しい戦経験では百戦錬磨の上杉軍に敵わず、兵力で勝っているにもかかわらず、追い返されてしまいます。(このときの上杉軍部隊長・水原親憲の活躍が群を抜いており、戦後、徳川秀忠より感状が出されているほどです。)
 ここからは管理人の妄想歴史ヒストリアです。記録によると頼次の出生年&享年時の年齢が不詳となっているのですが、斎藤家臣だったころには最低でも元服していたものと考えると、大戦時には60歳を越える高齢だったはずです。あと、木津川口での戦では大将格の人物は誰も亡くなっていませんので、頼次は大阪の陣で豊臣方で最初に戦死した大将になります。
 高齢で老い先短い命だから最初の捨て駒にされたのか?または自分で志願したのか?どちらにしても、2千の兵を率いることができるのは戦慣れしている証拠です。戦国時代の武士の身分だと、【下っ端クラスの足軽大将で部下200~500人、中堅クラスの侍大将で部下800~1500人程度、重臣クラスの部将や家老で部下2千~3千以上】というのが当時の一般基準だったものとみられます。もちろん、大名家の勢力によって異なってきますが。
 黄母衣衆だったこともあるし、戦経験も十分なことから、数ある将のなかから一軍の大将に選ばれたのです。豊臣方に集まった将兵たちは、徳川が嫌いだからではないのです。徳川の天下人の決め方に、異を唱えたのです。「徳川家康がいくら我慢してきたからといって、そんな卑劣な決め方でいいのだろうか?」、「豊臣秀頼をないがしろにする必要はあるのか?秀頼を倒す必要はあるのか?」、「そんな一方的なやり方は許さない、例え数で劣っていても戦ってやる!あんまりだ。」異を唱える者が誰もいなければこの大戦も起きずに、すんなり徳川の天下統一が成ったでしょう。「徳川家康の絶対的権力の前に、みんなひれ伏しました、家康様万歳、おしまい、ジャンジャン」と、こんな感じ?しかし、勇将たちが命も家族も全て捨てて決起したことにより、戦国史上最大の激戦事実や背景が証明されたのです。
 絶対不利な戦とわかりつつ、豊臣方に集まった真の猛者たち。そんな中には、徳川方についていれば将来があったはずの若い侍も沢山いたとされます。この大戦の後に到来する戦の無い平穏な世を思い描きながら、助かる可能性が極めて低い大戦に命を集結した侍たち。前線の大将として徳川方の大軍を一番最初に、堂々と迎え撃った老将・井上頼次。その勇姿は、若い勇将たちの目に、きっと焼き付いたに違いないと思います。(激戦に勝利した上杉景勝徳川家康から、砦の守備は堀尾忠晴と交替して行うように言われたが、景勝は「血眼になって奪った砦の守備を、他人なんかに任せられるかっ!」とつっぱねたらしいです)


参考資料
鴫野の戦い - Wikipedia