だらしなブログ

たまにギャグ漫画描いてます(´◉◞౪◟◉)

「我が道」

 こんばんは。今夜の「真田丸」、見逃さずに見ます。楽しみです。今日の特集武将は、塙直之(ばんなおゆき)です。団右衛門(だんえもん)とも言います。この武将は「真田丸」に出てくるのでしょうか。あまり期待しないでおきましょう。さあ恒例の落書きです、ご覧下さい。団右衛門は鉄砲が得意だったらしいので、鉄砲を持たせてあげました。

〈塙直之〉f:id:yaki295han:20161023085051j:plain

 団右衛門の出生と大坂の陣以前の経歴については、沢山の説があり、どれが事実なのか全くわかりません。織田家の家臣だったとか、千葉家の家臣だったとか、北条綱成(北条家一門衆のトップ)の家臣だったとか、小早川隆景に仕えていたとか、本当に様々あります。信長の野望だと全シリーズ通して、最初は織田家の家臣として登場します。結局のところ、何度も仕官先を変えていたようですが、どこへ行っても団右衛門の勇猛さを称える逸話があることから、相当な猛者だったことは間違いありません。大坂の陣でも豊臣方の主力メンバーとされ、仲間内からも、かなりあてにされています。最後の天王寺の戦いにおいても、真田幸村毛利勝永らは、「後藤基次木村重成・塙直之は、もういないんだ・・・」などと口走ったとか・・・、言わなかったとか・・・。
 大坂の陣直前までは、伊予松山の加藤嘉明の家臣だったことは、ほぼ確かな記録のようです。朝鮮出兵の際には加藤家臣として参陣し、数名だけで敵船三艘を乗っ取るなどの、大活躍をしています。その後の関ケ原の合戦にも加藤家臣として参陣していますが、このとき、命令無視などの軍令違反を起こしたとされ、主君・嘉明との仲も悪くなり、出奔しています。他にも、恩賞に不満があったとされる説もあります。
 団右衛門は加藤家を出奔して浪人暮らしの後、大坂城に入城します。団右衛門は豊臣方が勝った暁には大名になるつもりだったという説もありますが、戦功を挙げるなら、徳川方の大軍の中より、豊臣方で勝ったほうが「英雄」の肩書もついてきますからね。実際、団右衛門はそういった「名を売る」ことを重要視していたとされています。
 最初、大野治房の組に配属となった団右衛門は、夜襲を仕掛けて敵将・中村右近(蜂須賀家臣)を討ち取るなどの活躍を見せました。その際「夜討ちの大将・塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒いたという逸話が残されています。これは、過去に命令違反を指摘された旧主・加藤嘉明へのあてつけだと言われています。
 大坂冬の陣での活躍を認められて、翌年夏の陣では、豊臣方の部将に引き立てられています。(侍大将よりも上の身分。一軍の総大将格。)樫井の戦いにおいて団右衛門は、大野治房らと一緒に出陣して奮戦します。このとき団右衛門は一番槍を狙っており、部隊の最先端にいました。また、治房本隊が昼食をとっているあいだに団右衛門ら先陣は敵との交戦に突入してしまいました。この戦いでは、予め煽動しておいた紀伊一揆勢も呼応して参戦したのですが、連携がうまくとれなかったこともあり、苦戦状態になりました。一揆を指導するはずだった大野家臣がすでに敵に捕らわれていて、一揆勢は指揮官不在の状態だったようです。そんな中、団右衛門は敵将4名(浅野家臣の多胡助左衛門・亀田大隅・八木新左衛門・横井平左衛門ら)に囲まれてしまい、混戦の末に討ち取られてしまいました。団右衛門戦死の報せを聞いた同僚・淡輪重政も突撃を決行して壮絶な死を遂げました。また、一番槍を競っていて仲が悪かったとされる勇将・岡部則綱は生きて退却できたのですが、「団右衛門だけを死なせて、自分は生き残ってしまった。」と自分を恥じ、自害しそうになったところを毛利勝永に制止されています。
 主家を何度も変え、過去に軍令違反も指摘された塙団右衛門。管理人が思い描く団右衛門の人物像は「自分の意見をはっきり言う人。良い意味で、上司にも反抗できる人。ちょっと変わり者だけど戦のベテランでまっすぐな人。」というイメージがあります。また、岡部則綱も素晴らしいと思います。仲が悪くても、ともに死を覚悟した同志・命で繋がれた者同士、この戦に賭ける絆は相当固いものだということが伺えます。そんな団右衛門と、団右衛門をとりまく人々のことを、管理人は個人的に好きです。

参考資料
塙直之 - Wikipedia