だらしなブログ

たまにギャグ漫画描いてます(´◉◞౪◟◉)

「剛毅なる名家の智将」

 また深夜に起きてしまいました。起きたということは、また何か食べることになりますね。今晩の深夜食は、ペヤングソース焼きそば・超大盛W(あの二つ入ってるやつ)です。そうです、またカップ麺です、ハイ。深夜のカップ麺は最高です。昼間に食べるより美味い気がするのです、味は変わらないはずなのに。あとは肉まんとあんまんを食べました。

 また起きて食べてしまったついでに、ブログ更新といきますか。主役級の武将の記事に移行する前に一人忘れてました。管理人がかなり好きな武将の一人、結城朝勝(ゆうきともかつ)。この人の生き方については、ある人が見れば「偏屈な人。意固地で変わったやつ。」と評価されてしまうかもしれませんが、管理人はすごくカッコイイと思うのです。

〈結城朝勝〉
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 結城朝勝は、下野の大名・宇都宮広綱の次男として生まれました。天正5年(1577年)に、跡継ぎがいない結城晴朝の養子となりました。この時、宇都宮家と結城家、さらに佐竹家が加わり、この三家は同盟を組みました。この三国同盟の最大の目的は、北条家に対抗する力を手にする為でした。
 翌年1578年に北条氏政常陸に進攻してきた際に、三国が協力してこれを撃退しています(小山台合戦)。この戦いに、まだ10歳だった朝勝は初陣として参加したとされています。
 その後しばらくして、豊臣秀吉が天下人になり、その秀吉に取り入りたいが為に、1590年に養父・晴朝は、朝勝がいるにも関わらず、当時秀吉の養子だった徳川秀康を結城家の養嗣子(跡継ぎの優先的権利を持った養子)に迎えてしまいます。
 これによって居場所が無くなってしまった朝勝は実家である宇都宮家に戻りました。この出来事がきっかけで朝勝は、自分の居場所を奪った結城晴朝と徳川家を嫌いになり、以降、朝勝は反結城家・反徳川家の姿勢を最後まで貫くことになりました。さらには、宇都宮家は何らかの策略で改易までされてしまいました。この仕打ちには、もうめちゃくちゃ腹が立ったことでしょう。
 そんな不屈の精神である朝勝は、その後は盟友・佐竹家にお世話になり、関ヶ原の合戦でも当然、徳川なんかには味方せず、西軍に味方しました。合戦中は、上杉家と佐竹家の間に入って両家の仲を取り持つなど、外交官としても活躍しました。また、宇都宮家の旧臣たちに声がけして挙兵を促すなど、積極的な行動をみせました。
 西軍に属した佐竹家が秋田へ減封された際には、佐竹家に付いていき、佐竹義宣をよく支えました。戦場における結城朝勝は、どっちかと言うと、先頭に立ち自ら槍を振るうよりも、指揮官として上手く指示を出すタイプだったようです。
 朝勝は大坂の陣においても、一貫して徳川には味方せず、豊臣方に味方しています。こういった一徹者は、管理人はけっこう好きです。
 最終戦にて朝勝は、毛利勝永真田幸村の近くに布陣して共に戦い、信濃大名・小笠原秀政を討ち取る大功を見せています(小笠原秀政は、討ち取られなかったけど致命傷を負って、自分の陣にたどり着いた際に死んだとされる説もあります)。
 諸将のほとんどが戦死する中、この激戦下から生き延びた朝勝は、名を変え神官として天寿を全うしました。享年60歳。結城朝勝(宇都宮朝勝)、その一貫した強い姿勢と闘志に、乾杯っ!

参考資料https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E6%9C%9D%E5%8B%9D