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だらしなブログ

たまにギャグ漫画描いてます(´◉◞౪◟◉)

「寡兵なりとも一軍を率いるは、勇将との覚えめでたき者なり。」

 こんばんは!もう金曜日ですね。1週間が過ぎるのは早いものです。日曜日の「真田丸」、楽しみです!そして朝・晩は本格的に冷えてきましたね。近年は夏から秋を通り越して一気に冬が到来していますよね。とんだ異常気象です。この寒さはとても秋とは言えません!
 たとえ秋を通り越しても、管理人にとって食欲の秋は毎年到来しています。寒くなり始めますと、食欲はより一層増してしまうのですよ。さっき夕飯を食べましたが、1時間経過すると腹が減ってくるのです。何もしていないのに。何も考えていないのに。何も悪いことしていないのに(笑)
 今日の夕飯は肉野菜炒め・フライドチキン(冷凍食品)・肉厚のハム・豚汁をおかずに、大盛ご飯3杯食べたあとに、締めで大盛ご飯に卵をかけて食べました。管理人が料理しました。この記事を書き終わったらスイーツを食べようと準備しています。寝る直前に間食をとり、深夜2~3時に腹が減って起きてカップ麺を食べることでしょう。いつものことです。とにかく、腹は減る一方なのです。
 さて本題です。今晩の特集武将は、飯田家貞(いいだいえさだ)&矢野正倫(やのまさとも)です。今晩は2人いきますっ!昨晩紹介した鴫野の戦いとほぼ同時に勃発した今福の戦いで、今福を守備していた豊臣方の部隊長です。
(※絵は妄想で描いております。年齢などの記録が無い為、年齢不詳です)

<飯田家貞>
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<矢野正倫>
f:id:yaki295han:20161014194520j:plain

 昨晩の井上頼次に続き、この2人の記録資料もほぼ無い為、マイナー武将扱いになってしまうのは仕方ないのかもしれません。管理人がいつも頼りっぱなしのウィキぺさんにすら、この2人の記録はありません。特に飯田家貞のほうは、ほんっとに記録がありません!ここで管理人の不満です。勝者である徳川方に、敗軍の将たちの記録もしっかり事実を残してほしかったです。そして後世に伝えてほしかったです。勝者の記録だけが大げさに過大評価されて残されるのは、百歩譲るとしても、敗軍の将の中にも名将たちがいたわけですから、敬意を払う証拠を残すのが、天下人たる人だと思います。まあこんな考えが持てる天下人だったら、こんな理不尽で卑怯な戦は、起こしていないだろうが・・・。少しくらい何か残す記録があったでしょうに・・・。
 大阪の陣以前の矢野正倫は、伯耆米子18万石の大名・中村一忠の重臣として、3千石を持っていました。かなり有力武将ですね。そして和泉守の官位も賜っています。1609年に主君の一忠が急死したとき、一忠の正室とのあいだに跡継ぎがいなかった為、徳川家康は中村家を断絶させました。主家が断絶したことにより、矢野正倫は浪人になりました。
 しかし、後になって「実は主君が急死した直前に2人の側室にそれぞれ男子が生まれていた」ことがわかったのです。側室は、子ができていない正室に気を遣って黙っていたらしいのです。そのことを知った矢野は、徳川家康にその男子を跡継ぎにお家再興を申し出たのか、それはちょっとわからないです。矢野は、主家を断絶させた徳川には味方せず、豊臣に付いて戦い、勝った際にその男子を推して主家を再興させようとしたようです。この話を聞くと、矢野正倫は忠義にあふれた良将ですね。(のちに中村家は、一忠の弟・正綱が、鳥取藩主・池田家を頼り、お家再興を果たしています。池田家は一忠の母の実家であったようです。)
 大阪の陣での2人については、今福を守り、佐竹義宣の猛攻にあい、激しい銃撃戦の末に2人とも戦死しています。佐竹義宣といえば天下に名が轟く名将ですね。この記録だけから見れば相手が悪かったと言う方々がほとんどでしょう。しかし管理人は、調べた記録の中から、驚愕する内容に注目したのです。それは、相手が名将であればあるほど、2人の勇敢さを称える内容です。それでは説明させて頂きましょう。
 佐竹軍1500の攻めに対し、豊臣方守備の2人に配備されていた兵数はわずか600人。2人で300ずつ預かっていました。一説によると、その600人のうち半数以上が工作兵だったとされています。これが事実なら、この2人の将の下には実戦部隊200~300人程度しかいなく、この寡兵で戦ったことになります。2人が戦死したすぐあとに、木村重成後藤基次が援軍に駆け付けます。壊滅こそしたものの、援軍が来る直前まで、佐竹相手に少数ながら持ちこたえていたことじたい、驚異です。ここらへんは、勝った後も生きながらえるつもりで戦に出た兵たち(恩賞目当て等)と、この戦で死ぬ覚悟ができている豊臣勢とでは、死への恐怖に対して(兵士ひとりひとりの勇敢さ)、かなり差があったことでしょう(特に真田丸・道明寺・天王寺の戦いにおいてその差が明らかに出ているのですが、まだ特集していない武将たちの、次回以降の記事にしたいと思っています)
 この今福で初陣となった木村重成は、矢野・飯田たちの残兵を救いながら、佐竹軍の名将・渋江政光を討ち取る大功を見せています。渋江隊が壊滅した事実を聞いた佐竹義宣は、大激怒したとされています。佐竹側からしてみれば、こんな場所はただの通過点に過ぎなかったのでしょうか。そういった意味でも、矢野・飯田の両大将の奮戦は、佐竹軍に大損害を与える布石になっていたと言ってもいいでしょう。
 木村・後藤隊が来たことで佐竹軍は壊滅状態に陥りましたが、上杉景勝ら鴫野の援軍が来て(このときの兵力も、昨晩記事に登場した井上頼次の奮戦により、だいぶ減らされている)、完全壊滅だけはなんとか逃れ、両軍とも一時膠着状態になりました。やがて両軍とも退却したことにより、今福の戦いは幕を閉じました。上杉・佐竹らは徳川家康から、「鴫野と今福を奪い、その地に付け城を築くように」指示されていたが、退却してしまったので築城はできずに終わりました。築城できなかったことから、記録では引き分け(決着つかず)とされています。
 前回の記事同様、もう何度も言わせて頂き恐縮なのですが、こんな少数で敵に向かっていくということは決して真似できないのです!ふつうは大将も部下たちも逃げるか・寝返るかして、戦にすらならないのです。正気の沙汰では無かったのかもしれません。しかし、逃げずに戦い抜いた豊臣方の将たちは勇猛・勇敢な武士として、称賛されるべき存在だったでしょう。


参考資料:
信長の野望
今福の戦い - Wikipedia